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Archive for 2月 2008

モルモン書が最初に出版されて以来1世紀半経った今日は、そのモルモン書の歴史の中ではどの時代に比べてもこの書物がさらに広く読まれている時代です。…この書物が人の心に訴えかけるのは、真理がそうであるように時代の分け隔てがなく、人類にとって普遍的なものです。この書物はそれが真実かどうかを知るために、聖なる神の力によってそれが明らかになると読者に約束されている唯一の書物です。その起源は奇跡であり、その書物について良く知らない人がその起源についての話を耳にする時、それはあまりにも信じがたいものです。しかしこの書物は、誰もが手にとってそれに触れ、読むことができる書物です。誰もその存在を否定することはできません。ジョセフ・スミスによって与えられたこの書物の起源以外、モルモン書の由来を知るためのあらゆる努力は、実体に欠けることが示されてきました。モルモン書は古代アメリカにおける記録です。またそれは聖書が旧世界でそうであったように、モルモン書は新世界における聖典です。聖書とモルモン書は相互にその存在を証しています。それぞれが人にその真実性を確信させ、キリストに改宗するための神の霊感と力を備えています。これら二つの書物は、手に手を取り合って、イエスがキリストであり、イエスが復活され、イエスは生ける神の生ける御子であることを証する書物となりました。 (”‘An Angel from on High, the Long, Long Silence Broke,’” エンサイン1979年11月号, pp. 7-8.)

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過去150年間、ずっと明らかに示されてきたことは、文学的な分析や科学的研究がモルモン書の真実性について人に安心を与え、最も歓迎される証拠を打ち出したとしても、モルモン書が真実であることは、それらによって決定されるのではないという事実です。過去においてそうであったように、現在にも未来においても、敬虔で尊重の気持ちと祈りを通してモルモン書を読むことによって、この書物が真実であることが決定されるのです。 (”‘Praise to the Man,’” BYU Devotional Speeches of the Year、1979年11月4日、 p. 205).

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卓越 「皆さん一人一人に申し上げたいことは、わたしたちは一人残らず今よりも向上できるということです。私たちは絶えず卓越することを求めています。この卓越の追求はとどまることなく、終りもないのです。そして全身全霊を傾けて行い、不屈の精神をもって行わなければなりません。…. この競争の激しい世の中にあって、現状にとどまることはできません。絶えず向上していなければならないのです。苦渋の思いをし、率直で、時には厳しい話し合いを行わなければなりません。卓越を求めるには並ならぬ努力が必要です。」 (「卓越の追求」、ボンネビル・インターナショナル社幹部役員、1989年2月6日) Categories: ゴードン・ヒンクレー、ゴードン・B・ヒンクレーの言葉、ゴードン・ヒンクレーの教え | No Comments

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「恐れを感じたことのない宣教師がいるでしょうか。私は知りません。もちろん誰でもときどきは恐れを感じるものです。戸別訪問を恐れる人もいます。自分の能力に不安を持っている人もいます。犬をこわがる人もいますし、正々堂々と真理を述べることを恐れる人もいます。私たちはみな時には、 恐れを経験するものです。しかし私たちに恐れることを教えたのは神ではありません。恐れはサタンから来るものです。それを認識していれば、サタンに退けと言い、勇気をもって前進できるのです。 神は私たちに力と愛、そして健全な知性を与えてくださいました。それはどういうことなのでしょうか。私はこう思います:つまり私たちに与えられている召しの力、神権の力、メッセージの力;主の御言葉への愛、私たちが仕える御方への愛、私たちが教える人々への愛;そして健全な知性-これが福音の純真ですばらしい美しさなのです。」 (宣教師訓練衛生放送より、1993年5月11日) Categories: ゴードン・ヒンクレー | No Comments

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私の伝道部で伝道していた二人の若者のことを忘れたことはありません。一人はスーパースターでした。教養もあり、聡明で、頭の回転が速く、少々尊大なところもありました。もう一人は看板書きでした。看板屋で働いていて、教育のレベルもあまり高くはありませんでした。自分が能力不足であることを認識していて、すべてを主に頼っていました。彼が祈るときには、主と話しているのがわかりました。暗記した祈りではなく、主との会話でした。この若者は驚くべきことを成し遂げましたが、もう一人の行いはただうわべだけで魂が入っていませんでした。力を持っている一人と、力を持っていないもう一人との違いは、歴然としていました。主に頼ってください。主は皆さんを招いておられ、必ず答えをくださいます。」 (ユタ州スミスフィールド/ローガン地区大会、神権指導者の部において、1996年4月20日)

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祈り

わたしはこの教会の指導者の一人として、主に助けを求めることができます。わたしたちはそれを知っていますが、もうすこし熱心にする必要があります。主のみ手に事をゆだねられることほどわたしたちにとって助けになることはありません。…わたしの数々の祈りが答えられたと何のためらいもなく言うことができます。それを否定することができないことをよく知っています。この困難な時代において、わたしたちは導きを求めて祈ることが必要です。…祈りは、わたしたちの手に届く素晴らしい奇跡的な頼みとなる方策です。すばらしいことに、祈る事について天才である必要はありません。主は最も謙遜な者の声を聞かれるのです。 (スミスフィールド/ローガ・ユタ地区総大会親権者会、1996年4月20日)

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わたしがまだ少年でソルトレークシティーで育っていた頃、ほとんどの家は石炭を使って家を暖めていました。その為、どの煙突からも真っ黒な煙が吹き出されていました。冬の終わりになると、家の中も外もどこもが黒いすすとほこりにまみれていました。楽しみにしている訳ではありませんが、毎年お決まりの習慣がありました。それは家族全員を動員しての「春の大掃除」でした。長い冬の後に気温が温まってくると、一週間ほどが掃除の時期にあてがわれ、どの家でも母親がこの習慣に腕まくりをするのです。カーテンはすべて取り外して洗濯してから、きれいにアイロンがかけられました。窓は内も外も洗われて、まあなんと、二階建ての家だと大変な仕事になることでしょうか!壁紙はそのまま剥さずにおいておき、父親たちが、快い新鮮なにおいのするピンク色をしたパン生地にも似た壁紙クリーナーの缶を家に持って来ます。そして子供たちは缶の周りに集まります。クリーナーの生地を手にとって練り始め、それを持ってはしごに登り、先ず天上から初め、壁へと移動し、すすとよごれをその生地で掃除しながら降りてきます。生地は壁紙から取った汚れですぐに真っ黒になります。それはきつく疲れる作業ですが、掃除の結果といったらまるで魔法のようにきれいになるのです。後ろへ下がって、まだ汚い壁と見比べると、きれいになった壁は驚くばかりに美しく見えて、自分たちが知らない間になんと汚く汚れたものだろうと気づくのでした。 みんなでじゅうたんを取り払って、裏庭へ引きずり出し、一枚ずつ物干しにぶら下げます。男の子はそれぞれ、木の持ち手のついた軽いスチールのはたき道具でそのじゅうたんをはたきます。じゅうたんをはたくとほこりが飛び出すので、ほこりがでなくなるまではたき続けます。その作業が嫌いだったことは言いようもありませんが、それが終わって、じゅうたんが元に戻された時、その結果はすばらしものでした。家はきれいになり、わたしたちの心も一新されました。まるで世界中が良くなったように見えたものです。 春の大掃除は、比ゆ的に話しますと、ちょうどわたしたちが必要なことを教えています。預言者イザヤは、「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、…主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」(イザヤ1:16-18) (ゴードン・B・ヒンクレー、“Standing for Something” New York: Three Rivers Press, 2000, p. 49)

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神権の力

「すべての人が主なる神、すなわち世の救い主の名によって語るため」(教義と聖約1:20)の聖なる神権が回復されたことをわたしの永遠の父なる神に感謝したいと思います。この優れた教会の管理にあたって麗しく驚くべき出来事が神権を通して現されることを見てきました。また神権の力が私を通して流れ出て病人を祝福し癒すことを感じたこともあります。偉大で重要な責任に召された謙遜な神権者が気高く高貴な神の力をもたらすことを見てきました。天からの力と権威をもってまるで神ご自身のみ声のように神権者が語るのを見てきました。(”My Testimony,” エンサイン1993,年11月号p. 52)

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もし他の人に対する敵意の醸し出す毒気をその心に育む人がいるなら、その人を赦すための力を主に願い求めてください。この願いを表現することは、あなたの悔い改めの最も重要な実体になります。それは簡単なことではないかもしれません。すぐに手に入れられるものでもないかもしれません。しかし、もし真心から赦す心を求め、それを培っていくなら、それを得ることができます。たとえあなたが赦した人が、続けてあなたを追い続け脅しても、あなたは和解を有効にするために尽くしたことに納得するでしょう。あなたの心に、和解以外からは手に入れられない平安が訪れるでしょう。その平安は、神からの平安です。主はこのように言われました。 「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイ6:14-15) (“Be Thou an Example” [Salt Lake City: Deseret Book, 1981], pp. 50-51.)

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わたしたちを傷つけた人を赦すことは、誰にとってもどんなに難しいことでしょう。わたしたちは、人が自分にした悪いことを根に持つ傾向があります。いつまでもその事ばかり考えていると、それは苦痛で破壊的なしこりになります。人の誤りを赦し忘れるという徳ほど今の時代に必要とされている徳が他にあるでしょうか。赦して忘れることは、弱さのしるしだと考える人があります。それは弱さでしょうか。苦しみぬいた人の誤りに憤り、根に持って、これに応報する計画を立てる人の力は、強さでもなければ、知的なことでもないということを断言したいと思います。「お相こになる」日を待って生きることには、なんの幸福もありません。(”‘Of You It is Required to Forgive,’” エンサイン, 1980年11月号, p. 62.)

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